諌早水害
1957年(昭和32年)7月25日県内を襲った豪雨は、諌早地方をはじめ各地にわたって1昼夜降り続き、26日朝までの降雨量724ミリを記録、死者683人、行方不明者133人の貴い人名を失い、被害総額約250億円に達した。特に諌早地方では1、000ミリを突破したと推定(農林省長崎干拓事務所で976ミリを記録)され、多良岳中腹200カ所に及ぶ山津波が怒涛のごとく尾を引いて、一気に土砂岩石を押し流し、本明川などの河川の水位を上昇させ、折からの満潮時と重なったため、河川流域だけでなく激流は尺余の段落をつけて家屋、橋梁を倒壊。流失した家屋、木材が橋梁をふさいだため同市内に激流となって流れ込み、加えて市内放水路、本明川などの氾濫と降雨量の増大により市内中心部は水深3メートル以上に達し、市内全域に大被害を生じた。この豪雨は大村、南高来郡の各町にも諌早と同じような被害を与えた。(清水 登久郎 「長崎県大百科事典」s59/8/10 長崎新聞社発行)
(のんきの批評:
「満潮時と重なったため」とあるので、調整池が果たす役割はあるのだろうが、多良岳中腹で起きた200カ所に及ぶ土石流が本明川の水位を上昇させたことが初めに書かれています。死者・行方不明者816名の発生の場所・時間・状況を検討して、調整池がもしあったならそのうちの何名の人命が救われるのかを示すのが洪水防災対策なのだが、「中間報告書」では諌早大水害の検討は全く行われていない。利用されたものは、諌早大水害時の6時間降雨量380ミリのみ。
また、長崎県は、そのホームページで「長崎県は災害の常襲県であり、高潮、洪水の被害を経験してきました。 最近では昭和60年の高潮被害もありますが、特に昭和32年の諫早大水害では816名の 人命を失うなど非常に悲しい災害を経験していることは記憶されている方も多いと思います。」と書いて、あたかも調整池があったなら816名を救えたという主張を行っている。しかもその根拠は「中間報告書」にあるかのような記述をするのみで示さない。地元の森山町の町長は、「調整池ができて大雨が降っても堤防の決壊の心配がなくなった。安心して眠れる。」と朝日新聞に語った。
いったい彼らは本気で調整池で大水害が防げ、死者を救うことができると考えているのか?それとも住民をだますつもりなのか?どちらなのか私には判断がつかない。ちなみに農水省は、なんだかんだ紛らわしいことを書いても、調整池は「洪水被害を軽減する」にすぎないとちゃっかり書いて、逃げ道を確保している。「洪水を防ぐ」と「洪水被害を軽減する」とでは天地の差がある。 1997/10/28)